最高裁福島原発避難者訴訟令和4年6月17日判決は、なんど読んでも、やってもダメだったから、やってなくてもいいんだよね~としか読めません。
言葉は悪いですが、長期評価の信用性やそれに基づく試算津波を受けた対策を、結論はともかく、真摯に審理している下級審の実務を愚弄するものです。福島原発訴訟に関わっている者であれば、肩透かしどころではない低レベルな判決、先例拘束性のない「紙切れ」であることは分かると思います。三浦守判事の説得力のある反対意見と比べ、スカスカであることは明らかです。
勉強しても落第だった蓋然性が高いから、勉強しなくても落ち度はない、高校球児が努力しても甲子園に行けないから、努力しなくてもよい、そんな判決です。すべきことをしたけどダメでした、ということではありません。何もしてないけど、してもダメだった(蓋然性が高い)から、しなくても落ち度はありません。こんな言い訳を、原子力災害で使ってよいとは思えません。なお、想定外の津波だったから・・・という報道もありますが、争点は政府機関の平成14年の長期評価をもとに試算した津波を前提に対策をとっていれば事故を防げたかであり、国は試算・想定も対策も何もしておらず、保安院は、長期評価後に、東電に「だいじょうぶでっか?」とメールし、東電が対策はしなくてよいとしたので、「そんなもんか」として終わってしまっています。想定すらしていません。また、何らかの対策をしていれば、何もしていないよりは被害は当然軽減されます。それにより損害の程度も額も変わることになります。少なくとも破棄差し戻しをすべきはずです。愛媛訴訟の高松高裁事件は最高裁に記録が送付された直後に期日指定されています。各下級審で異なるはずの証拠の検討すら不尽であったのではないか。
原子力災害は、ひとたび発生すれば、人々の生命・健康はもちろん、人々のつながり、地域産業や生業、生活基盤、農業・漁業や各種産業、環境・風土、国家基盤さえ失います。これは原発の賛否とは別次元の問題です。むしろ推進するのであれば、美しい日本の国土を愛すればこそ安全性の確保について厳しく臨む必要があります。
最判令和4年6月17日をもって国家賠償請求は事実上困難となったとの報道もありますし、確かに厳しくなった面もありますが4名の裁判官のうち1名である検察官出身の三浦守判事が緻密で説得力のあるな反対意見をし、そして、津波の予見可能性という最大の争点を回避した、読めばスカスカであることは明らかな判決文を見れば、こんな紙切れに何らの人類的価値を見出せないことは明らかであり、わずかたった3人の最高裁判事による事例判決にすぎないので、なお、ほかの最高裁判事や下級審裁判官の良心を信じて克服が可能なものだと考えます。法律解釈であればともかく、結果回避が可能であったかという事実認定なので、結果回避できる術を見出せばよい。
法曹の諸先輩に失礼ながら、しかし、あまりにも、最高裁として、しょぼい判決なので、抗議をしたいと思いますし、こんな判決には従えないと、読めば読むほど思うところです。裁判所の皆様はこんなんでよいと思いますでしょうか。こんな仕事しかできないのでしょうか。
三浦守最高裁判事の反対意見を最高裁の多数派になるよう引き続き闘います。あきらめません。